“在宅介護はいつか限界が来る” でも、その先に何があるか——。仕事を続けながら夜中のおむつ交換をこなす娘、体調が悪くても介護を続ける妻、言葉を失っても精一杯なにかを伝えようとした要介護5の夫。ケアマネ1年目の私が経験した、忘れられない在宅看取りの記録です。
出会い
78歳の田中さん(仮名)と出会った時、介護認定は要介護2。脳梗塞の後遺症で左半身にマヒが残っていた。不安定でも杖を使い自分の足で歩くことはできたが、一緒に暮らすのは妻と娘さん。
女性である二人が田中さんの不安定な歩きを介助することは、ともに転んでしまうリスクが高かった。
そのため病院を退院してからも車イスの生活だった。
田中さんは懸命にリハビリに取り組んでいた。
リハビリスタッフに支えられながら一歩ずつ足を踏み出すと、田中さんは嬉しそうな顔をした。
そしてリハビリを終えると、小さな声で「ありがとう」とつぶやいた。
口数の少ない穏やかな人。
その一言に、田中さんの思いが込められていた。
きっと、自分の足で歩くことが嬉かったんだと思った。
夫婦で一緒に自転車で出かけていた田中さん
妻はよくこう話してくれた。
「この人が元気な頃はね、二人で自転車でいろんな所に出かけたんだよ。2時間くらいかけて桜を見に行ったり、美味しいラーメンを食べに行ったりしてね。」
「この人は昔からぶっきらぼうでね、きれいな花を見ても、おいしいものを食べてもあまり喋らなかったけど、顔はうれしそうだったんだ。あの時はほんとに楽しかったなぁ。」
妻はちょっと口の悪い人だった。
でも夫への愛情は人一倍深く、「夫の世話は私の責任」それが妻の信念だった。
自分が体調の悪い日も、それを隠して夫の世話をした。
私がそれに気づいたのは、妻の顔色がいつも悪かったからだ。
私「奥さん、無理していませんか?」
妻「大丈夫です。これくらい平気。なんともないよ!」
いつもこう答えていた。
しばらくしてから、ショートステイを使うようになった。
眠れない娘の夜
娘さんは会社員。
当時は介護休業という言葉もあまり使われておらず、制度も今ほど整っていなかった。
「母に任せっきりにはできない。母は元々は体が弱いんです。」
娘さんは、仕事が終わるとまっすぐ帰宅し、家事をこなし、夜中のおむつ交換を担うようになった。
昼は仕事。夜は介護。
娘さんは慢性的な睡眠不足が続いていた。
それでも弱音を吐くことはなかった。
「お父さんに恩返しがしたいから」と言い日々の介護をこなしていた。
「バカヤロー」の意味
認知症が進むにつれ、田中さんの言葉はさらに少なくなった。
「バカヤロー」
でも怒るときだけ、はっきりした言葉が出た。
この時の介護認定は一番重い要介護5。
最初はデイサービスのスタッフへの暴言だった。
それは、妻や娘さんにも向けられるようになった。
動く方の手で、手を上げるような仕草もした。
介助をするスタッフに噛みついたこともあった。
田中さんの変化に家族は戸惑った。
「こんなことをする人じゃなかったのに⋯」
「お父さんが別人のように変わってしまった⋯」
この時、私は思った。
怒るときには、必ずなにか理由がある。
デイサービスのスタッフとその原因をさぐった。
そしてよく観察していくと、パターンがあった。
・自分のペースを無視されたとき。
・急かされたとき。
・体のどこかが痛かったとき。
これは田中さんの声だったとわかった。
●『まだお風呂に入りたくない』
●『急にさわられてびっくりした』
●『今日は腰が痛い』
「バカヤロー」は、言葉を失った田中さんの、精一杯の表現だったのだ。
それに気づいてから私たちのケア目標が変わった。
最後まで口から食べてほしい
歩けなくなっても、田中さんは食事は自分で食べようとした。
ある時デイサービススタッフが言った。
「むせこみが気になります。でも自分で食べようとする姿を大切にしたいんです。テーブルや食器を工夫してみましょう。」
看護師と管理栄養士にも相談し、とろみをつけた飲み物、食べやすい形状をいろいろ工夫し、食器の位置やスプーンも変えてみた。
みんなで田中さんが安全に食べられる環境を考えた。
元気な頃から食べることが好きな人だった、と家族から聞いていた。
最後まで口から食べてもらいたい
家族と介護チームの願いだった。
「施設に入れるのは、かわいそうですか」
要介護5になり数年たったある日、娘さんがこっそり聞いてきた。
「施設に入れるのは、かわいそうなんでしょうか。知人に話したら『親を施設に入れるなんてかわいそう』と言われました。でも母も私も、もう限界に近いんです。父の介護から逃げるのはいけないことなのででしょうか。」
私は少し間を置いた。
夜中のおむつ交換を続ける娘。
体調が悪くても介護をする妻。
二人がここまで頑張ってきたことを、私は十分知っていた。
そしてこう伝えた。
「施設は逃げではありません。お父さんを支えるための選択肢のひとつです。田中さんは家族のことをずっと大切にしてきた人です。だからこそ、家族のつらさもいちばんわかっていると思います。認知症でも家族を思う田中さんの気持ちは変わっていないと思います。」
それを聞いた娘さんは泣いた。
その涙は、罪悪感と安堵が混ざったような涙だった。
急変
特別養護老人ホームへの入所が、もうすぐというところだった。
ある朝、訪問看護師から連絡が入った。
「ここ数日食事も水分もほとんどとれていません。」
その後、訪問診療の担当医師が、残された時間がわずかであることを家族に告げた。
妻も娘さんも、それを静かに受け止めた。
もう迷いはないように見えた。
それから数日後、田中さんは自宅で静かに息を引き取った。
妻と娘さんはずっとそばにいた。
田中さんは穏やかでやさしい顔だった。
その時私は思った。
「これが田中さんの本当の顔だったんだ。」
晩年、いつも眉間にシワを寄せていた田中さん。
でも最期に、初めて本当の顔を見た気がした。
最期に残ったもの
田中さんは施設に入ることなく、家で最愛の家族に看取られた。
娘さんが田中さんに声をかけた。
「さいごまで家にいられてよかったね、お父さん。」
妻は何も言わなかった。
ただ静かに、夫の手を握っていた。
かつて二人で自転車で出かけた日々が、そこにあるようだった。
私は思った。
田中さんの「バカヤロー」は、怒りではなく、精一杯生きている証だったのかもしれない。
田中さん一家は、たくさんのことを教えてくれた。
●言葉がなくても、人は伝えようとしている
●介護者の「限界」を見逃してはいけない
●「施設=かわいそう・逃げ」ではない
●家族の絆は、介護の苦しさの中でより深まることがある
●人が最期に求めるのは、そばにいてくれる大切な人
完璧な介護はない。
でも、最後に「これでよかった」と思える介護は必ずある。
田中さんが、私にそれを教えてくれた。
これが、ケアマネジャーである私の原点です。
最後までお読みいただきありがとうございました。

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