一人暮らしのAさん
介護の現場で出会う方々には、それぞれの人生があります。表には出てこない感情や過去を抱えている方もたくさんいます。
Aさんは80代後半の男性。一人暮らしで、足が不自由で持病を抱えていましたが、病院嫌い。頑固で人を寄せ付けない性格もあり地域との関わりも少なく、唯一の家族である隣県に住むひとり息子さんに対してもいつも厳しい態度をとり、いつの間にか疎遠になっていました。
初めて訪問した時、玄関先で「うるさい!帰れ!」と怒鳴られました。怒りと警戒心に満ちた表情でした。しかし動かない足を引きずり転びながら生活するAさんに、介護の支援は必要でした。
それでも諦めず、訪問を続けました。「帰れ」という言葉は毎回ありましたが、それ以上の拒否はありませんでした。「なぜ来たのか」「困っていることはないか」を丁寧に伝え続けるうちに、話を聞いてもらえるようになり、ヘルパーさんが入ることになりました。
定期訪問を続けるなかで、「帰れ」はいつの間にか言わなくなっていました。困っていることだけでなく、家族のことも少しずつ話してくれるようになり、はじめは険しいだけに見えたAさんの本来の姿が、ようやく見えてきた気がしました。
Aさんの心のうちに秘めたもの
Aさんには認知症の症状もありました。気分や体調によって感情が出やすくなるという特徴があり、訪問のたびに波がありました。しだいに玄関先で迎えてくれる時の最初の表情で、その日の状態をなんとなく読み取れるようになっていきました。言葉や歩く動作などから、体の状態や認知症の変化もわかってきました。
ヘルパー導入後、トラブルが生じ契約は中断となりました。Aさんには被害妄想の症状もあり、ご自身の言動を覚えていないこともありました。そのためヘルパーさんへの負担も大きく、安全面でも不安がありました。別の事業所に相談し、2人体制で関わっていただくことにしました。複数人での対応が、本人にとっても支援者にとっても安心につながりました。
Aさんが守ってきたもの
Aさんの家には家族写真が何枚も飾られていました。亡くなった妻との思い出の家を守り続けながら、時折、息子さんのことを誇らしそうに話すこともありました。
それでも私には、Aさんが息子さんを遠ざけているように見えていました。厳しい言葉、かたくなな態度。息子さんとの間に、深い溝があるのだと思っていたのです。
ある日、介護サービスだけでは補えない支援を、息子さんに協力を求めるよう提案しました。するとAさんはぽつりと漏らしました。「迷惑かけたくないんだよ、アイツには…今でも良くしてもらっている。感謝しているんだ。」と。
意外でした。遠ざけていたのではなく、息子さんへの精一杯の気遣いだったのです。これまでの厳しい言葉は、本当に怒りだったのでしょうか。妻を失った悲しみ、動かなくなっていく体、誰にも頼れないという孤独。「助けてほしい」とひとことも言えなかったAさんにとって、厳しい言葉は行き場のない喪失の叫びだったのかもしれません。
そう思うと、あの険しい表情が、少し違って見えてきます。
息子さんのこと
息子さんの気持ちは、私には推測することしかできません。
それでも思うのです。息子さんもまた、父への怒りと悲しみを同時に抱えていたのではないかと。介護サービスの相談でやり取りしていた電話の中で、息子さんがふと漏らしたことがありました。父からきつい言葉を受け続け、眠れない夜もあると。多くを語らない方でしたが、その言葉に、私の知らないところでのふたりの時間の重さが滲んでいました。もっとしてあげたい、でもどうすればいいかわからない。そんなやりきれなさが、あの「眠れない」という言葉の奥にあったのかもしれません。
それでも、息子さんは来続けました。仕事を休んで通院に付き添い、自分が行けないときはお嫁さんに頼んで、食品や日用品を届けてもらっていました。
ふたりの間には、おたがいに言葉にできなかった思いが、確かにありました。ただ、それが届く形にならなかっただけで。
ケアマネジャーの役割
ある日、Aさんは急激に持病が悪化し救急車で搬送され、数日後に病院で静かに息を引き取りました。葬儀会館で、いつも険しい顔をしていたAさんの穏やかな表情を初めて見ました。
息子さんは黙ったまま、お父さんの顔をじっと見つめていました。言葉はないけれど、そのまなざしの中には、たくさんの感情が込められているように見えました。
私はそっとAさんの生き方を思い返しました。不自由な体で誰にも頼らず、ひとり家族との思い出を守ってきたAさん。ずっと大切な家族を想っていたAさん。心の奥にしまい込んでいた感謝を、ほんの少し、私に見せてくれた時のAさん。
私は、Aさんが息子さんに「ありがとう」と言いたかったことを感じ取り、それを息子さんに伝えました。最期のAさんの表情が、そう語っているように見えたから。
ケアマネジャーは、利用者の人生のほんの終わりの部分だけの関わりから始まることがほとんどです。なので、その方のこれまでの人生や家族との関係など、知らないことがたくさんあります。安易にそこに触れてしまい、ときに怒鳴られたり拒絶されたりすることもあります。でも実はその奥に、言葉にならない感情が隠れていることがあるのだと思います。もしそれが、大切な人に伝えたいなにかであるのなら、それを伝えるきっかけになれればと思います。
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